生田神社社報「むすび」誌 no156 令和三年八月一日掲載分より | ||
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生田神社では毎年、恒例の正月に飾る杉盛(すぎもり)が有名である。神社は今から一一〇〇年前に現在の新幹線、新神戸駅に近い砂子山(いさごやま)に鎮座していたが延暦十八年の山中を襲った大洪水で松の木が倒れ、社殿が倒壊、そして今の地に遷座したと伝えられている。 |
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[*]神社仏閣の建槃で板壁を張る最上級の施行の際の「雇い実矧ぎ」という継ぎ方を宮大エが云う呼び名。 能舞台の正面奥の羽目板。正面に大きく老松を、右側に若竹を描いたものが多い。 |
官幣中社生田神社境内縮圏(明治三十年頃) | ||
改めて文書館で「生田神社史」を閲覧、最初の頁に生田神社境内縮図(明治三十年頃)というのがあり拝殿の東側、木を背景に神楽殿があった。最も古い神社の様子がわかる図であり、この神楽殿が能舞台ではなかったかと加藤名誉宮司に聞くと、そうだということで、この時は木々の前に鏡板のある能舞台かと思っていた。 神楽殿でも演能はあることで神楽殿、能楽堂、能舞台が混沌としているが演能記録を調ベようと倉田喜弘「明治の能楽(一)ー(四)」(日本芸術文化振興会)から生田神社のものを拾い出していった。一番古い記録の中から明治二十四年十一月二十三日神能を催す。明治二十五年五月五日奉納の能楽あり、番組も記載されている。明治二十八年、二十九年、三十一年と奉納能楽の記録があり、金剛鈴之助、謹之助、片山九郎三郎、大江信之助ほかの能楽師の名前がある。明治三十六年十一月生田神社の能楽堂、神楽殿落成、臨時祭典執行するの由。大西閑雪、大西亮太郎ほか。 同じ頃、神戸女子大学古典芸能研究センターに足を運んで、能楽関係の「大観世」「金剛」ほかの雑誌を片っ端から見ていったが手がかりになるものは何もなかった。 「明治の能楽」の記事が「大阪朝日」以外は「神戸又新(ゆうしん)日報」とあり初めて知った新聞名であったが神戸文書館で閲覧出来ることを知った。明治十七年から昭和十四年まで神戸で発刊された日刊新聞が文書館で収められて目の前にかなりの量が並んでいたのに全く気が付かなかったのである。 「明治の能楽」明治三十六年十月二十八日の生田神社の能楽堂 當市官幣中社生田神社の神楽殿は、昨年十一月に起工し此程全部落成を告げたるを以て、来月三、四日の両日は落成式の為め臨時祭典を執行する由[中略]。四日は午前八時より奉納能楽の施行あり[抄記] そして文書館で「又新日報」を開き、生田神社の能舞台、鏡板の杉の様子、画家の名、知りたいことはこの記事で総て分かった。 その後、写真、岡柄がないものかと神戸女子大学古典芸能研究センターで棚を見ているうち‘「神戸謡曲界」(大正十一年から昭和十五年頃)という雑誌が目に止まり神戸のことは神戸のほうが解るかと初めて手にした。欠号も多いようで全部で四十二冊閲覧していった。 杉の図柄、舞台に触れた文章もあった。「大正十二年夏、彼の荘厳雄大なる生田神社の能舞台、而も鏡板は日本随一だと云われて居る古杉の図で松と異なった神韻に富む物である。筆者は深田直城画伯で極めて写生的の画である。ー中略ー能楽が使用しないから琵琶が利用した迄だと云えばそれ切りのものだがー中略ー」この頃は能舞台を演能に使うことはなかったようである。 また昭和八年八月十日第三十五号に生田神社奉納能楽の写真もあった。今のところ能舞台の演能での唯一の写真である。舞台、橋掛り、観客の様子は解るが残念ながら鋭板の杉の図柄は不鮮明。 |
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明治三十六年十月二十八日「神戸又新日報」生田神社の能楽堂の記事 | ||
生田神社奉納能楽「小袖會我」 向かって左上田浅ー氏、右辻田榮介氏 「神戸謡曲界J 昭和ハ年ハ月十日第三十五号 |
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大正時代の奉納は今のところ資料が見付からない。昭和十年四月二十二日春祭奉納楽會、 能楽「富士太鼓」、上田隆一、舞囃子「三輪」 上野義三郎、狂言「呼声」茂山忠一良と神戸在住で当時、活躍した能楽師の名前が残って いるのを最後に生田神社の能舞台の記録は今 まで調べた限りでは確認が出来ていない。 昭和のこの頃になると加藤名誉宮司の話で は、もう戦争で能楽堂どころではなかったと 言うことである。 |
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生田神社舞台 (藤井久雄著 『鶏肋抄』)より 墨絵の杉の図柄の鏡板 森月城 | ||
生田神能 藤井久雄著 「鶏肋抄j より 戦災に遭った生田神社では、 焼野ケ原の生田の森にいち早く仮本殿が建ったので 、 先ず人心の安定を祈る気持ちで、社殿の横手に仮舞台を作り、観謳会として舞囃子や箙の能を奉納した。これが神戸における戦後最初の能であった。【中略】のち神社では、舞台の鏡板に使用出来る高さ七尺五寸、幅十八尺の六枚折を新調された。これは竹馬家の寄贈になるもので、森月城画伯がわざわざ淡路のいざなぎ神社の杉を写生に行かれ、墨絵ではあるが立派に出来上がった。 元来、鏡板は松の絵が定まりであるが、生田様は昔から松がお嫌いで、境内には一本の松もなく、戦前まであった能舞台の鏡板にも松の替わりに杉が描かれ、「羽衣」などを謳う場合にも「これなる松に美しき衣掛けれり」とは言わず、「これなるところに美しき衣掛けれり」と謳う程、徹底した松嫌いの神様として有名で、正月の門松も生田様は杉盛さまとして杉葉が使われている。【中略】 五十四年九月薪能が催され、その後、生田秋祭の行事として続いている。 |
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