生田神社社報「むすび」誌 no156 令和三年八月一日掲載分より  
     
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生田神社では毎年、恒例の正月に飾る杉盛(すぎもり)が有名である。神社は今から一一〇〇年前に現在の新幹線、新神戸駅に近い砂子山(いさごやま)に鎮座していたが延暦十八年の山中を襲った大洪水で松の木が倒れ、社殿が倒壊、そして今の地に遷座したと伝えられている。
そのために現在の境内には松が一本もなく、松竹梅も松は桜を使っている。ずいぶん以前にラジオ関西の番組の中で、文学博士で神戸女子大学名誉教授、現在生田神社名巻宮司である加藤隆久氏がそんな話をされ、神社 にあった能舞台の鏡板[*]の図柄も杉であった。全国でもひとっしか無い珍しいものだったと話されていた。
早速、加藤宮司(当時)にお目にかかって能舞台、鏡板の事を聞いてみたが、戦争で総て消失して資料も何も残っていないと言うことであった。

日本画家、松野秀世先生との出合いは大槻能楽堂に在職していた三十年以上前、阪急うめだ美術画廊での先生の小品展の時だった。初対面であったが、今、豊中の住吉神社の宮司さんが見えていた。神社にある能楽堂は、三度に亘り移築再建したものであるということ。各地にある能楽堂、能舞台の変遷、一枚づつ特色のある鏡板の図柄、その作者のことなど興味深い話であった。
若い頃、油絵に専念した事もあり、絵は好きである。その頃、編集していた大槻の会報にそんな能舞台、鏡板の図柄の紹介が出来ないかと先生にお願いした。
先生の事は父子で能画家ということしか知らず、拙い会報誌に今となっては恥かしい限りである。能画家、松野奏風、秀世、父子は能楽の世界でつとに著名であり、奏風先生は中尊寺の白山神社能楽殿をはじめ、各地に三十を越える鏡板の老松図を描き能評ほかで健筆を振い、幅広い活動をされ、秀世先生も東京観世能楽堂、厳島神社能舞台再建で鏡板絵の復元など二十数箇所の松図を手がけた方であったことを後になり知った。
翌年から年四回発行の会報誌に大阪、京都、兵庫で十六箇所の掲載をした。そのあいだ、終わった後も現存最古の国宝、西本願寺の能舞台の調査に松野先生、写真家の今駒清則氏、建築家の故澤良雄氏ほかで二度入り、明石の魚住の住吉神社、加古川方面、京都市内や亀岡、岸和田ほかの能舞台、鏡板絵図を訪ねた。
生前、先生は鏡板図をまとめたいと言われていて今年は是非、未踏の九州へ行きましょうと電話で話されたのを最後に急逝された。
その年の秋、宇佐神宮の演能の日に合わせて宮崎からフェリーで九州に入り、熊本、福岡、唐津、大分と廻って来たが、先生がいられたらという想いが頭から離れなかった。

去年からのコロナ禍で能の催しが中止となり、今年に入り以前から気になっていた自分の住んでいる神戸の生田神社の能舞台にあったという杉の鏡板図、日本にひとつだけしかなかった珍しい図柄を見たいと思い調べてみようと思い立った。
先ず神戸文書館に行き話をすると長田区にある「神戸アーカイプ写真館」へと云われ、出向いた。生田神社に関する三五0枚余りの写真を見たが能舞台の手がかりになるものは一枚もなかった。

 

  [*]神社仏閣の建槃で板壁を張る最上級の施行の際の「雇い実矧ぎ」という継ぎ方を宮大エが云う呼び名。
能舞台の正面奥の羽目板。正面に大きく老松を、右側に若竹を描いたものが多い。
 
     
   
  官幣中社生田神社境内縮圏(明治三十年頃)  
  改めて文書館で「生田神社史」を閲覧、最初の頁に生田神社境内縮図(明治三十年頃)というのがあり拝殿の東側、木を背景に神楽殿があった。最も古い神社の様子がわかる図であり、この神楽殿が能舞台ではなかったかと加藤名誉宮司に聞くと、そうだということで、この時は木々の前に鏡板のある能舞台かと思っていた。
神楽殿でも演能はあることで神楽殿、能楽堂、能舞台が混沌としているが演能記録を調ベようと倉田喜弘「明治の能楽(一)ー(四)」(日本芸術文化振興会)から生田神社のものを拾い出していった。一番古い記録の中から明治二十四年十一月二十三日神能を催す。明治二十五年五月五日奉納の能楽あり、番組も記載されている。明治二十八年、二十九年、三十一年と奉納能楽の記録があり、金剛鈴之助、謹之助、片山九郎三郎、大江信之助ほかの能楽師の名前がある。明治三十六年十一月生田神社の能楽堂、神楽殿落成、臨時祭典執行するの由。大西閑雪、大西亮太郎ほか。
同じ頃、神戸女子大学古典芸能研究センターに足を運んで、能楽関係の「大観世」「金剛」ほかの雑誌を片っ端から見ていったが手がかりになるものは何もなかった。
「明治の能楽」の記事が「大阪朝日」以外は「神戸又新(ゆうしん)日報」とあり初めて知った新聞名であったが神戸文書館で閲覧出来ることを知った。明治十七年から昭和十四年まで神戸で発刊された日刊新聞が文書館で収められて目の前にかなりの量が並んでいたのに全く気が付かなかったのである。
「明治の能楽」明治三十六年十月二十八日の生田神社の能楽堂 當市官幣中社生田神社の神楽殿は、昨年十一月に起工し此程全部落成を告げたるを以て、来月三、四日の両日は落成式の為め臨時祭典を執行する由[中略]。四日は午前八時より奉納能楽の施行あり[抄記]
そして文書館で「又新日報」を開き、生田神社の能舞台、鏡板の杉の様子、画家の名、知りたいことはこの記事で総て分かった。
その後、写真、岡柄がないものかと神戸女子大学古典芸能研究センターで棚を見ているうち‘「神戸謡曲界」(大正十一年から昭和十五年頃)という雑誌が目に止まり神戸のことは神戸のほうが解るかと初めて手にした。欠号も多いようで全部で四十二冊閲覧していった。
杉の図柄、舞台に触れた文章もあった。「大正十二年夏、彼の荘厳雄大なる生田神社の能舞台、而も鏡板は日本随一だと云われて居る古杉の図で松と異なった神韻に富む物である。筆者は深田直城画伯で極めて写生的の画である。ー中略ー能楽が使用しないから琵琶が利用した迄だと云えばそれ切りのものだがー中略ー」この頃は能舞台を演能に使うことはなかったようである。
また昭和八年八月十日第三十五号に生田神社奉納能楽の写真もあった。今のところ能舞台の演能での唯一の写真である。舞台、橋掛り、観客の様子は解るが残念ながら鋭板の杉の図柄は不鮮明。
 
     
   
  明治三十六年十月二十八日「神戸又新日報」生田神社の能楽堂の記事  
     
   
  生田神社奉納能楽「小袖會我」   向かって左上田浅ー氏、右辻田榮介氏
「神戸謡曲界J 昭和ハ年ハ月十日第三十五号
 
     
 

大正時代の奉納は今のところ資料が見付からない。昭和十年四月二十二日春祭奉納楽會、 能楽「富士太鼓」、上田隆一、舞囃子「三輪」 上野義三郎、狂言「呼声」茂山忠一良と神戸在住で当時、活躍した能楽師の名前が残って いるのを最後に生田神社の能舞台の記録は今 まで調べた限りでは確認が出来ていない。 昭和のこの頃になると加藤名誉宮司の話で は、もう戦争で能楽堂どころではなかったと 言うことである。

能研究者で生前親しくしていた坂田昭二氏 の「近代能楽研究の先達 横山杣人(よこやまそまびと)の歳月」 の著書、横山杣人年譜より
昭和十二年 杣人氏六十四歳
[十月三十日]神戸へ出向き、大丸での御能趣味作品展で牧俊高の木彫り能人形、山口蓼洲 の能画を観賞したのち生田神社で「皇軍出征 将士の連戦連勝を奉祝し武運長久を祈願」し 明治の奉納能を回顧。「其頃の田舎に住む私が 能を観やうとすれば春は生田さん、秋は姫路の総社祭(十一月十五日)の僅に毎年二回の日の来するのを待ち遠しくも楽しむだものであ る」。(「能楽世界」五五〇号「樵日記三一〇」)

今回のことで明治以降の能楽界の様子を知 り、取り巻<事に興味をそそられ関心が尽き なくて、改めてその頃の本、雑誌を読み返していた。
現在、大阪の天満にある朝陽会館の上野家が昭和十年頃まで神戸で活躍していた事を知 り、先代の上野朝太郎先生と、故人で親しく していた知人とのちよっとした謎が解けて女流能楽師の赤井きよ子師(祖父は上野義三郎。 その子朝太郎師次女)に初めてそんな電話を したのである。上野家と知人は家族ぐるみのお付き合いだったので懐かしい話をした。ど うして解ったかと話をして生田神社のこと、 鏡板、深田直城という名前を言うと、赤井先生はその画伯のことをご存知で、お孫さんに当たる方のご主人様と親交があるというのには驚いてしまった。
今、その方と電話でお話をしているが、画伯のことを調ベライフワークにされており、 生田神社の鏡板を画かれたことはご存知なくてコピーを送ると喜んでいただけた。お礼のお葉書で奥様の手元にある作品や、資料をご覧いただく機会があればと願っているとのお言葉を頂戴している。
いずれ、杉の鏡板の図柄が解りましたら改めてご報告出来ることを願って調べているところでございます。

この度のこの文章をお読みになられた方にお願いがございます。内容についてのご指摘、 生田神社の能舞台、杉の鏡板のこと、深田直城画伯( 昭和二十二年大阪より移り住んだ西宮で没 )のこと、写真、資料、 情報がありま したら是非ご連絡頂きた<存じます。どんな些細なことでも結構です。

また、これを機会に能楽堂 、能舞台に足を運んで我が国の七〇〇年の伝統を誇る無形世界遺産である能楽を鑑賞いただき、舞台正面の鏡板の図柄にも目を止めてくださいましたら能楽に携わる者として嬉しく思います。
今回、写真家、今駒清則氏と神戸女子大学 古典芸能研究センター、大山範子氏にはひと かたならぬご協力を賜わりました。厚くお礼 を申しあげます゜

 
     
   
  生田神社舞台 (藤井久雄著 『鶏肋抄』)より  墨絵の杉の図柄の鏡板 森月城  
     
  生田神能 藤井久雄著 「鶏肋抄j より
戦災に遭った生田神社では、 焼野ケ原の生田の森にいち早く仮本殿が建ったので 、 先ず人心の安定を祈る気持ちで、社殿の横手に仮舞台を作り、観謳会として舞囃子や箙の能を奉納した。これが神戸における戦後最初の能であった。【中略】のち神社では、舞台の鏡板に使用出来る高さ七尺五寸、幅十八尺の六枚折を新調された。これは竹馬家の寄贈になるもので、森月城画伯がわざわざ淡路のいざなぎ神社の杉を写生に行かれ、墨絵ではあるが立派に出来上がった。
元来、鏡板は松の絵が定まりであるが、生田様は昔から松がお嫌いで、境内には一本の松もなく、戦前まであった能舞台の鏡板にも松の替わりに杉が描かれ、「羽衣」などを謳う場合にも「これなる松に美しき衣掛けれり」とは言わず、「これなるところに美しき衣掛けれり」と謳う程、徹底した松嫌いの神様として有名で、正月の門松も生田様は杉盛さまとして杉葉が使われている。【中略】
五十四年九月薪能が催され、その後、生田秋祭の行事として続いている。